それ、幻ですから。(般若心経の考察)
婚約者との会話の中で、閃いたことがあります。
女性の自分は「相手に経済的に安定して欲しい・家事を手伝って欲しい」と感じます。
男性はそれの対になることを思っている人が多いです。
でも、どれだけ経済力があったり、献身的な性格で、その時点で理想的な人がパートナーであっても、人生で想定外なことが起こる可能性が0にはなりません。
相手が交通事故で半身不随になることもありますし、結婚してみたら全然自分が思っていた人と違った!離婚しよ!ってなるカップルもめっちゃいます。
つまり、ある時点で「解決できている」と考えたことは、次の瞬間にもう無意味になる可能性があるということ。
逐次的に「解決しようとする」ことが実は本当の解決になっていないということです。
また、何かを解決しようとして策を練っても、次の問題が噴出してくることはあります。対応策の対応策の対応策…となっていって、結局元の問題はなんも解決しなかった、みたいな。
と、ここまで考えて、ふと中〜高校生のときに習った般若心経の一節を思い出しました。
色即是空。空即是色。
中高生のときは、お釈迦様なに言ってるの?
五感で感じることが意味ないってどういうこと?
たしかに、目で見た対象物の解釈が人によって違うことってあるよな〜、くらいに思ってました。
でも今日、以下のように解釈しました。
色=五感で感じたり、自分が考えていること(こうしたい、ああしたい、とか)。
空=実体がないことや、こだわりを持たないこと。
般若心経の中に、無眼耳鼻舌身意、という言葉もありますが、目鼻口耳舌で「これはこのような有様であるはずだ(あるいは、そうあるべきだ)」とこだわることは、何の意味も持っていないということ。
むしろ、「空」であることが「色」、すなわち、こだわらないことこそが解決なんだ、ということなんじゃないか?と。
勝手な想像になりますが、仏陀は悟りの境地に達するまでに壮絶な修行をしたと言われていますね。
小国の王子だったけれど、生老病死の苦しみから逃れるための救いを修行に求めたわけです。
でも気づいちゃったんですよ。苦しみから逃れようと対策をしても、真に苦しみは消えないと。
むしろ、苦しみは存在し続けるし、消えないということを受け入れたうえで、自分には何ができるのか?と、自分と同様に苦しむ人々を救うために、自問し続けること。
思い通りにいかない人や物事に自分から沿った行動をすること。
こだわりのない行い、利己的ではない行いこそが結局自分を救うのではないか…?
という考えに至ったのだと思います。
伝承ですが仏陀は、人を何人も殺めた犯罪者を弟子に受け入れたりしています。それも仏陀が、犯罪者の目に映るものや、殺人の動機が「空」であると考えているからなのです。
その意味では、大乗仏教は上座部仏教よりも、仏教の在り方としては般若心経に沿っている気がします。
キリストが説く「隣人愛」にも通じますよね。
あとなんか、「嫌われる勇気」(アドラー心理学)とも通じるものがあるなあ、と閃いたような気がしたのですが、思い出したら書きます。